救われるべき人たち 映画「罪の声」「ミステリと言う易れ」

罪の声
自分が大人たちにより不本意に犯罪に加担させられていたこと、同じように声を使われた子どもでも生き方が正反対だったことが重くのしかかった。

俊也は大人になるまで犯罪に自分の声が使われていたことを知らず家庭を持ち仕立て屋としても生計をたてて生きてきた。一方で同じように声が使われた姉弟の人生は、姉は死に追いやられ弟は天井から縄を吊ってある部屋にただ隠れるように時が過ぎるのを待つだけの人生だった。
姉の望が無事であることを願う中学時代の友人が俊也に放った「望ちゃんと同じように声を使われた人が幸せに生きてるって知って嬉しかったんです。」「望ちゃんも幸せに生きてますよね。」(ニュアンス)という言葉は、俊也の人生が他人の目には「幸せ」なものとして映ってしまうということなんだと思って、なんと言葉を返せばいいか鑑賞している自分も分からなかった。

聡一郎に「どんな人生を送ってきたのか」と聞かれたときも、声を使われたという共通項はあっても、その後の人生は正反対にわかれ、自分は「幸せ」に生きてこれた側であるとすると、「不幸」な人生を送ってきた彼にそのことを言うのはあまりにも苦しいだろうなと思った。問われる場面で次のシーンに変わったけど何も答えなかったのかな。
その次のシーンで阿久津から責任を感じる必要は無いというようなことを言われるけど、同じ被害者でも幸せに生きてしまった、生き残ってしまったという罪悪感に対して語りかけているように思えた。

この物語で犯罪に使われた声の持ち主は皆子どもで、声が使われた理由は「足がつきにくいと思った。」などの大人の勝手な都合で、子どもの意思が無視され個人として踏み躙られていた。
映画「ミステリと言う易れ」で子どもの心は固まる前のセメントと形容されていたように、子どもは良い影響も悪い影響も猛スピードで吸収できてしまうし、精神的に傷つけられた場合は埋めないとそのまま残ってしまうと思う。子どもにも意思はあり、大人に都合よく扱われる理由は無い。
大切に育てられる権利がある子どもが大人たちから不当な扱いを受けてしまったという理不尽さから目を背けることはできず視聴後も重い感情が鉛のように残り続けた。